「彼女はQ」

「インディアンが嘘つかなかったのは昔の話。いまは平気でつく。勝利のためならば一億でも二億でも。敗者は嘘を口にする権利さえ奪われるのだから。ついでに言うと、隻眼のセドナの話はイヌイットのもの。私たちの神話じゃない」


あらすじ

灰谷亜美夏。本場のカジノでも見破られなかったイカサマの天才。彼女はとある理由から大金を必要としていた。そんな彼女がパートナーとして目をつけたのは無敵の強運の持ち主・古座間星斗。
看楽倉美子。確率を重んじる数学の天才。彼女はとある事情から古座間に恋焦がれ、彼の姿を遠くから見守る毎日。ふと気づくと、憧れの古座間に変な少女が最近絡んでいる。彼を守れるのは私しかいない!
かくして二人は対決をすることに。勝負の天才達が挑むゲームの行方は?


超強運を前提にしてギャンブル小説は成り立つか?

色々と微妙なSFっぽい設定はあるものの基本的には真っ当な(?)ギャンブル小説。
SF要素のあるギャンブル小説といえばマルドゥック・スクランブルが思い出されるが、向こうと比較してゲームの内容、あるいはゲームの技術自体に重きを置いている印象。ポーカー、大富豪、ブラックジャックとゲームも庶民的だし。ぶっちゃけSF要素は付け足しな感じもしなくもなく。イカサマ・超強運≠SF要素だし。あっても別に問題はないけど。
最後のも含めオチのつけ方は良い。
倉美子の計算程度は常識の範疇だろうが亜美夏の常軌を逸したイカサマ、古座間の問答無用の強運は正直ギャンブルの駆け引きを描く小説においては足枷でしか無いと思うが、それを前提にしつつ各勝負できっちり『一撃』を決めている所はなかなか上手い(バースト関連が多いがそれはご愛嬌か)。
だが、「何でもあり」を認めている分、ゲームの過程が細かく描かれているのにもかかわらず、勝負中の緊迫感とか過程の重要性が蔑ろにされてると感じた。過程はどうあれ結果が全てだ、ってまぁそれはそうなのだけど。
「何でもあり」を無くして、純粋に運と駆け引き(と多少のイカサマ)だけの地味な勝負でも良かったのではないか。
逆にそういった要素を混み混みで成り立つギャンブル小説、という意味では今のままでも意味はあると思うが。この界隈以外でそんな設定は滅多に無いだろうし。
4840239401彼女はQ〈クイーン〉 (電撃文庫 よ 3-3)
吉田 親司
メディアワークス 2007-08